50年めの大きな玉ねぎ #10(少年篇) 医者にならなかった兄

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10−2−1医者にならなかった兄
10−2−2医者にならなかった兄10−2−3医者にならなかった兄

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10-5−1 医者にならなかった兄
10-5−2 医者にならなかった兄
10-5−3 医者にならなかった兄
10-5−4 医者にならなかった兄

家系を
一代や二代
遡れば
若くして命を落とした人や
成人出来ず
亡くなった子供
がいる方は

とても

多いのではないでしょうか。
篤という
守の兄弟も
思い出話の途中で
消息が途絶えており
どうしたのかと
調べてみると
慶応義塾大
医学部予科
在学中に
亡くなったようなのでした。
兄弟のなかで
一人だけ
お金のかかる
私立校に
通っていたことで
一家の期待も
大きかったことが
うかがわれ

とても
残念です

・・・

一方
守の
13歳年上の
ですが、
守が
東大建築学科に進んだのは
兄が通っていたから
と 
高校の同級生に
語ったことが
伝わっており、
守が
建築家になる
きっかけを作った
キーマンと言えると思います。
しかし

(漫画のネタバレになるので
詳しく書けませんが)

色々なことがあった人のため

守も
ほとんど静の話を
語り伝えておらず

そのため
なかなか

謎の多い
人物なのです。

その中でも
静の
最大の謎は、
明治37年、
岐阜羽島から
帝国大学に進んだ人は
2人しか
いなかったという

時代に

なぜ

黎明期の
東大建築学科に
あえて入学したのか?
ということです。
(本家には、
医学部に行くと言って
家を出ていったことが
伝わっていました)

そこで私は
色々考えたのですが、

●「母は私が殺したようなものです」
と言って涙をこぼした


という
静のエピソード

本家の方の回想記(1)
残っていたこと

また
静が10才頃に起きた、

●2番目の母の命を奪った
濃尾大地震

日本に出来始めた
西洋建築のもろさを
露呈させ

そこから
日本独自の
耐震構造が生まれていった

という時代と
重なることから

静が建築学科に
進んだ理由を


このように
描いてみました。

(鹿鳴館の設計者で
日本人初の建築家を
大学で育てた
ジョサイア・コンドル氏も

濃尾大地震の実態を調査し(2)、

日本初のオフィスビル
三菱1号館
耐震の工夫を取り入れたため

建物は
関東大震災でも
無事倒壊しなかった
そうです)

このように

当コミックエッセイは

プライバシーポリシーにも
書いておきましたが

一部

不明な
史実などに

作者の推測による
脚色等を
加えてあります

その旨どうぞご了承ください

また、

そのような場合は

当時の時代背景や
建築の状況が
伝わるようなものを
入れていければ

思っております

★★★

さて

静兄の
もうひとつの謎

大学を
8年もかかって
卒業したのは
なぜ?
という事実に

次回は迫ってみたいと
思います !


次の更新に続きます 
 
 
参考
(1)慈母回想 山田計一(私家版)

(2)日本近代建築家列伝 丸山雅子監修 鹿島出版会

耐震構造の父 内藤多仲(動画)

濃尾地震と関東大震災(論文) 武村雅之

近代日本の洋風建築  藤森照信  筑摩書房

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