50年めの大きな玉ねぎ #12-2 絵が役に立つ職業

山田12-3−4
山田12-3〜ラスト
山田12-4−1
山田12-4−2
山田12-4-3

山田12-4-4-2

山田12-5−1
山田12-5−2
山田12-5−3

山田12-5−4

つづく

以前の話では
山田守
故郷の自然によく親しみ
それが
守のつくる
建物にも
大きな影響を与えたのではないか?
ということを
描いたのですが、
その割に
守は
故郷の話を
晩年になるまで
ほとんど
していないようなのです。
それは
故郷の農村の
古い因習や
しきたり
縛られた
生活から抜け出して
新しい時代に
向かっていきたい
という
思いも
人一倍強く
それが
故郷に対する
反発心と
なっていたから
なのではないかと
思われるのでした。
(最後の写真は
実際
山田家に遺された
当時の写真ですが、
父 弘三が気合い入れて
撮ってるのに
守だけ
そっぽを向いてます^ ^
また
当時の世相として
明治の中頃より
漱石ら
文学者を中心に

近代的自我
の確立
模索されていた
背景もありました。
と言うと
難しく感じられますが.
ようするに
江戸時代までは
お上が
生き方を
決めてくれていたのが
明治維新とともに
それが
無くなってしまい
自分とは何か?
よい生き方とは何か?
それぞれ
考えなければ
ならなくなった
ということです。
日本は
黒船が来て
外圧がきっかけで
一気に西洋化して
国力を高めようと
した
訳ですが
それを支える
精神的な
ものの考え方
西洋の考えを
ベースに
取り入れようとしたのです。
とはいえ
当時
近代的自我の確立
などの
意識を持てるのは
まだまだ
全体の人数から
見れば
ほんの少数の
高等教育を
受けた
学生などだけでした。
守は
地方の
田園地帯の
出身でしたが、
中学に通うことが出来、
文学好きから
近代的自我の
考え方に
目覚め始めた時期
自分の内面の希望に忠実に生きる
近代的自我を体現した
東大出の
目の当たりにし
その後の
生き方にも
影響を受けたに
違いない
と思われる
のでした。
これ以降
守は
時に
古い勢力からの
抵抗に遭いながらも
常に
自分の内面を見つめ、
良いと思ったことを
実現させていく
馬力に溢れた
人生を送ります
それもまた
この
故郷に対する
反発心を
バネにして
進んで行った
ようにも
思えるのでした。
守らが起こした
日本初の建築運動
分離派建築会
今までの
決まった様式で
作っていく
建築から分離し
自分たちの内面から
あふれ出る
創作意欲を
表現できる
自由な建築物
作っていこう!
という
主張の活動でした。
まさに近代的自我を
確立しようと
奮闘した
若者たち
建築に対して
その
考え方を打ち出した
活動
言えるのではないでしょうか。
6分離派
↑※大正9年です!後で直します
分離派建築の代表作といえばこんなのとか↓
IMG_5206
分離派建築会メンバー 瀧澤真弓氏 の作品です
山の家↑(模型のみのようです)
この運動以降
日本で
様々な形態の
建築物が
作られるように
なっていったようです
(それ以前は西洋から移植した
バロック様式とか
ルネサンス様式とか
型がある建物が主流でした)
【以下メイキング話】
さて、この写真…
私は
資料と
伝え聞いた事柄と
この一枚の写真から受ける
登場人物のイメージを
ミックスさせて
この話を描いてみたのですが…
山田12近代自我写真わいこ1
最初は誰が誰だか分からなかった
この写真も
見つめていくと
様々なドラマが読み取れる気がしてきて
とても楽しかったのです
(^ω^)
山田12近代自我写真1

私の似顔絵は似てないのは
さておき、
気がむいたら
拡大して
元ネタの世界を
お楽しみ下さいネ(^^)
※ちなみにこの家は
本家の跡取りの方の
ご尽力により
まだ変わらぬ姿で
保存されています
住む人もなく
保存されているそうで
守の生家として
見てみたい人が集まったら
公開しても良い
とのお考えもあるそうです
興味ある方いらっしゃいましたら
コメント欄や
SNS
などでお知らせ頂けたら
幸いです
公開実現は
可能かどうか
全く白紙ですが
ご希望の数によっては
本家の方に
相談させて頂きます
 


次の更新につづきます!

(次回で本当に岐阜篇の最終回です!)