50年めの大きな玉ねぎ #13-2 金沢青春篇 第二話

金沢青春篇②】

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山田金沢2−1−3


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山田金沢2−5−2
山田金沢2−5−3
山田金沢2−5−4
解説も頑張って書いたので是非!

漫画のみ読みたい方は金沢篇3話へ⇨


◆デカンショ節について◆

デカンショ節(元唄)

デカンショ節は、

元は兵庫県篠山市の民謡だったものを
旧制高校生が気に入り、
替え歌を歌ったところ
流行したのだそうです。

旧制高校生は
西洋を理解するため、
哲学書をよく読んだようですが、
デカンショ
カルト・カント・ショーペンハウアー
の略にも

ひっかけたそう。

旧制高校の替え歌版

戦前生まれの日本のリーダーたちは

教養と胆力のある
貫禄を持っていましたが

こんな唄を歌いながら
暴れまわるストームや、
格調高い講義に揉まれた
ことも
大きかったのではないでしょうか。

山田守は、
「ニーチェがこう言っている・・・
芭蕉が・・・・〇〇が・・」など
色々な人物の名前を挙げながら話をする

人でしたが、

哲学者や画家、作家など
違うジャンルの人からの気づきを
建築に取り入れる

ことが
しばしばあったようです。

近代建築のパイオニアとして、
良い建築とは何か?


模索しながら進むのに、
幅広く思想的なヒントを
得ようとしていたため
と思われますが、

この四高での読書や授業が

土台となった
のは
間違いないと思われます。

中でも、
この金沢で座禅を体験しながら
哲学に昇華した

四高のOB
西田幾多郎
には
大きな影響を受けていたようです。

守の著作『あすのすまい」や、
晩年出演したラジオ番組
「建築夜話」でも

西田哲学の考えを引用しながら、
西洋の形だけを真似しても
日本人は納得しない、

日本人はモノと心が統一されたものを
求めている、

(物心一如)
という持論を展開しています。

山田守の建物は
大胆なフォルムだが
機能性も良い

のが特徴とされますが、

モノと心を一体化させる

(日本人らしく心をこめる)
という意識が強かったことが
このような持論からも
うかがわれますね。 

ちなみに
谷口吉郎先生の
ご子息谷口吉生先生の作品
鈴木大拙館
現在の金沢では
人気の建築スポットですが、

西田幾多郎鈴木大拙
四高の同級生で、
互いに禅の思想で影響しあった
親友
でもあった
そうです。
鈴木大拙経由で
英訳された
ZEN
の思想
逆に西洋に影響を与え、
最近では
スティーブ・ジョブズも
禅の思想に
影響を受けていることが
知られていますが、
革新的なクリエイターに
影響を与えてつづけています。
金沢は武士の人数が多く、
禅宗が盛んだった
ことが、
四高の知性を経由しながら
波及
世界のクリエイターに
影響を与えていった
と思うと、
その地、
金沢で
青春を送ることが出来た
四高の生徒は
幸せだったのではないでしょうか。
数多くの著名人が
出ましたし、
山田守も
吉田鉄郎氏をはじめ、分離派の後輩や
逓信省の後輩など、
四高の人脈繋がりには
生涯助けられました。

【50玉建築散歩】

神奈川県・鎌倉

江ノ電の稲村ヶ崎駅〜七里ヶ浜に向かう

道路沿い
西田幾多郎先生晩年の居住地近くに
西田先生記念の
歌碑があるそうです。
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この不思議な形の歌碑は
坂倉準三先生
西田先生の著作からイメージを起こして
制作されたようです。
✳︎
西田哲学は難解ですが、
ざっくり言うと、

西洋のものの見方
デカルトの『我思う・故に我あり』といった
自我から世界を見ているという
二元論否定し、
自分も世界も一体である
という考え方のようです。
(好んでを書かれていた)
そのような
的な世界観が
伝わってくるような

不思議な雰囲気の歌碑ですね。
(*^^*)

また、石川県かほく市

西田先生の生誕地にある
西田幾多郎記念哲学館
安藤忠雄先生の
建築だそうです

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                       記念哲学館より

哲学に触れる仕掛けが色々あるようで、

時間が出来たら
ぜひ行ってみたい場所です。
西田幾多郎記念哲学館

あと、京都の哲学の道も
西田幾多郎先生が歩いてその名で
呼ばれるようになったり
・・・

次の更新は

11月25日(日)
の予定です!

一生懸命描いております・・・

コメントなど頂けたら
ありがたいです…

50年めの大きな玉ねぎ #13-1 金沢青春篇 第一話

IMG_7714
金沢青春篇
はじまり
はじまり
‼️

 【金沢青春篇①】

山田金沢1−1−1W600 枠なしカット
山田金沢1−1−2枠なし600 山田金沢1−1−3枠なし600 山田金沢1−1−4枠なし600
山田金沢1−2−1枠なし600山田金沢1−2−2枠なし600山田金沢1−2−3−1『』枠なし600


山田金沢1−2−3−2枠なし
山田金沢1−2−4枠なし600
山田金沢1−3−1枠なし600
山田金沢1−3−2−1−1枠なし

山田金沢1−3−2−2枠なし

山田金沢1−3−3枠なし600
山田金沢1−3−4枠なし

つづく
漫画のみ読みたい方は

大変遅くなってしまいましたが
山田守マンガ、19歳から23歳まで

大正2年から6年まで
青春篇を
お届けしたいと思います!

金沢での出来事は
資料で残されたものが少ないのですが、

建築的な話題で言うと、
ここでも絵を描きまくっていたそうで、

その画力が
のちの曲線を多用するデザインを支えたのではないか?

ということと、

ここで、
洋画の展覧会を主催した経験
後の
日本初の建築運動とされる
分離派建築会の活動につながっていったのでは?

ということを描いてみたいです。

また、
人間ドラマ的には
祖母の例のテープで
語られていた

祖母との出会いの様子など・・・・

事実を元にしながら
マンガチックに脚色してはおりますが、


近代建築家が
生身の人間として
どのように生きていたか、

その周囲の人が
どんな影響を与えていたか、

などをご覧になって、
建物をつくった人々に
少しでも
親しみを持っていただけたら光栄です

【50玉建築散歩】

現・石川四高記念文化交流館
IMG_0493

IMG_0494
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東京に長年住んだ上で
金沢の街に出かけると、
大震災も戦禍も無かったという場所には
こんなにも歴史が保存されているのか!と
とても心を動かされます

この建物も祖父が過ごしていた大正期から
ほとんど変わらす保存されて
いるのではないでしょうか・・・

政府に雇われた外国人の手ではなく、
大学で正規の西洋建築の教育を受けた
日本人建築家の作品
としては、
全国で最古の現存例に属する(「石川県の文化財」)
そうですが、

窓の上の白レンガの模様や、
内装の美しさ、
階段の模様に四高のマークが
あしらわれているなど

可愛らしさのあるデザインは
今見ても古めかしさを
感じません。

祖父が滞在していた頃
金沢は
東京大阪名古屋に次ぐ
大きな都市だったそうで、

加賀藩の奨励した
工芸の伝統もあってか
大正浪漫の美しさが花開きつつある
場所でした。

また、美人が多いことも有名で、
竹久夢二の奥さんは
金沢滞在時、
街に美人が多いので
夢二を一人で外出させたがらなかったとか。(笑)

そんな素敵な場所であった金沢から
祖父は
何を吸収していったのでしょうか?

マンガ内で山田守がかぶってふざけている
夏帽
後列右側の友人がかぶっているものを
描いてみました。
当時の制服はモノも良さそうでお洒落ですね。

IMG_7765

ちなみに山田守は前列左端。
その隣にいる友達は、大垣中から同じく一浪し、
一緒に四高に通った友人だそうです。

次の更新に続きます!
11月18日(日曜)更新予定です

50年めの大きな玉ねぎ #12-3 絵が役に立つ職業

【少年篇 絵が役にたつ職業】
最終回です

山田12-6−1身内が?
山田12-6−2アキとやら
山田12-6−3建築に来るといい
山田12-6−4図画の時間があって
山田12-7−1内田
山田12-7−2お前なら強
山田12-7−3都合のいい学問
山田12-7−4西洋どんな
山田12-8−1大学入れてから
山田12-8−2思い切り絵
山田12-8−3お疲れ様
山田12-8−4岐阜最後

→漫画13−1 金沢青春篇 第一話

※ねむねむで更新作業をしていて
この少年篇最終回を
消してしまったのを
復元しました

解説文も
以前は描いておいたのですが
新作の作業に力を入れていますので

また余力があるとき
復元します

ここまで読んでくださりありがとうございました!

IMG_9911

のち山田守の恩師となる
内田祥三先生

IMG_5630
内田祥三先生作 東大安田講堂

かなざ金沢告知ツイッター500w

新作しばしおまちください!

50年めの大きな玉ねぎ #12-2 絵が役に立つ職業

山田12-3−4
山田12-3〜ラスト
山田12-4−1
山田12-4−2
山田12-4-3

山田12-4-4-2

山田12-5−1
山田12-5−2
山田12-5−3

山田12-5−4

つづく

以前の話では
山田守
故郷の自然によく親しみ
それが
守のつくる
建物にも
大きな影響を与えたのではないか?
ということを
描いたのですが、
その割に
守は
故郷の話を
晩年になるまで
ほとんど
していないようなのです。
それは
故郷の農村の
古い因習や
しきたり
縛られた
生活から抜け出して
新しい時代に
向かっていきたい
という
思いも
人一倍強く
それが
故郷に対する
反発心と
なっていたから
なのではないかと
思われるのでした。
(最後の写真は
実際
山田家に遺された
当時の写真ですが、
父 弘三が気合い入れて
撮ってるのに
守だけ
そっぽを向いてます^ ^
また
当時の世相として
明治の中頃より
漱石ら
文学者を中心に

近代的自我
の確立
模索されていた
背景もありました。
と言うと
難しく感じられますが.
ようするに
江戸時代までは
お上が
生き方を
決めてくれていたのが
明治維新とともに
それが
無くなってしまい
自分とは何か?
よい生き方とは何か?
それぞれ
考えなければ
ならなくなった
ということです。
日本は
黒船が来て
外圧がきっかけで
一気に西洋化して
国力を高めようと
した
訳ですが
それを支える
精神的な
ものの考え方
西洋の考えを
ベースに
取り入れようとしたのです。
とはいえ
当時
近代的自我の確立
などの
意識を持てるのは
まだまだ
全体の人数から
見れば
ほんの少数の
高等教育を
受けた
学生などだけでした。
守は
地方の
田園地帯の
出身でしたが、
中学に通うことが出来、
文学好きから
近代的自我の
考え方に
目覚め始めた時期
自分の内面の希望に忠実に生きる
近代的自我を体現した
東大出の
目の当たりにし
その後の
生き方にも
影響を受けたに
違いない
と思われる
のでした。
これ以降
守は
時に
古い勢力からの
抵抗に遭いながらも
常に
自分の内面を見つめ、
良いと思ったことを
実現させていく
馬力に溢れた
人生を送ります
それもまた
この
故郷に対する
反発心を
バネにして
進んで行った
ようにも
思えるのでした。
守らが起こした
日本初の建築運動
分離派建築会
今までの
決まった様式で
作っていく
建築から分離し
自分たちの内面から
あふれ出る
創作意欲を
表現できる
自由な建築物
作っていこう!
という
主張の活動でした。
まさに近代的自我を
確立しようと
奮闘した
若者たち
建築に対して
その
考え方を打ち出した
活動
言えるのではないでしょうか。
6分離派
↑※大正9年です!後で直します
分離派建築の代表作といえばこんなのとか↓
IMG_5206
分離派建築会メンバー 瀧澤真弓氏 の作品です
山の家↑(模型のみのようです)
この運動以降
日本で
様々な形態の
建築物が
作られるように
なっていったようです
(それ以前は西洋から移植した
バロック様式とか
ルネサンス様式とか
型がある建物が主流でした)
【以下メイキング話】
さて、この写真…
私は
資料と
伝え聞いた事柄と
この一枚の写真から受ける
登場人物のイメージを
ミックスさせて
この話を描いてみたのですが…
山田12近代自我写真わいこ1
最初は誰が誰だか分からなかった
この写真も
見つめていくと
様々なドラマが読み取れる気がしてきて
とても楽しかったのです
(^ω^)
山田12近代自我写真1

私の似顔絵は似てないのは
さておき、
気がむいたら
拡大して
元ネタの世界を
お楽しみ下さいネ(^^)
※ちなみにこの家は
本家の跡取りの方の
ご尽力により
まだ変わらぬ姿で
保存されています
住む人もなく
保存されているそうで
守の生家として
見てみたい人が集まったら
公開しても良い
とのお考えもあるそうです
興味ある方いらっしゃいましたら
コメント欄や
SNS
などでお知らせ頂けたら
幸いです
公開実現は
可能かどうか
全く白紙ですが
ご希望の数によっては
本家の方に
相談させて頂きます
 


次の更新につづきます!

(次回で本当に岐阜篇の最終回です!)

50年めの大きな玉ねぎ #12-1(少年篇) 絵が役に立つ職業

山田12-1−1
山田12-1−2
山田12-1−3
山田12-1−4
山田12-2−1
山田12-2−2
山田12-2−3

山田12-2−4
山田12-3−1
山田12-3−2
山田12-3−3
山田12-3−4

つづく

白樺』の影響
IMG_8498
「白樺 美術への扉」より

今日私たちが
教科書などで
武者小路実篤らの
「文芸同人誌」
と習うことが多い
「白樺」
ですが、
明治末期に発刊された
当時、
若者中心にあちこちで
自己の内面を自由に表現する
表現
が模索されている世相の中、
美術面でも
図版という
ビジュアルにより
セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン
ロダン
といった巨匠の、
今までの美術の枠から
自由な表現をしている
作品
 
紹介した
影響は
 
色々な分野に及んだ
言われています
✴︎
特に
白樺は
学習院大学生ら
中心となり
作っていた
同人誌
だったので、
漫画でも触れた
ロダンと交流できた際の
同人たちの
熱狂の様子などは
やはり学生だった
読者に
興奮と
強い共感を生み、
出版社により編集された
他の雑誌とは
違う
独特の高揚感が漂う
特殊な存在
だったようです。
山田守も
早いうちから
この雑誌の大ファンで、
一号から集めていた
との証言が
祖母より伝わっています。
守が
学生仲間と6人で結成した
日本初の建築運動
かつ
日本のモダニズム建築の
出発点
とも言われる
分離派建築会
白樺を
愛読していた
堀口捨己氏
滝沢真弓氏らと
建築で
白樺派のようなことができないか
話し合い
 
形が出来たとの証言が
残っています
6分離派
私も実際
白樺の雑誌を復刻したものを
我孫子図書館に
読みに行きましたが、
特に創刊号から
数年分は
今読んでも
ワクワクした面白さが感じられ
時間を忘れて
読み耽ってしまいました
(*^^*)
*参考*
『「白樺」誕生100年 白樺派の愛した美術』
展示図録
調布市武者小路実篤記念館 展示・発行資料
我孫子市白樺文学館
我孫子図書館 (白樺雑誌閲覧)


✴︎
さて、
この話を描くために
色々調べていて、
今まで
少しの情報しか
伝わっていなかった
守の13歳年上
腹違いの兄
山田静
について、
色々な資料をあたるうち、
大阪の綿業会館など 
美しい建築を
幾つも残し
村野藤吾先生の
師匠としても知られる
渡辺節 先生
親友だったことが分かりました
 
IMG_5144
「建築家 渡辺節」  より 右が渡辺節氏
この本の中に
節先生と
静兄の
交流が
少しですが
語られていました
写真を見ると
ちょっと
ファッション?髪型?
が似ていました
(^ω^)
渡辺節先生は
美意識が高く、
粋でちょっと艶があり、
かつ
人を大切にされる
素敵な人物だったようで、
節先生の本を読み
私はいっぺんで
節先生のファンになってしまいました
(*´ω`*)
その節先生と気が合って
遊び回っていた
静兄の東京の青春は
どんなものだったのか…
そしてそれが
後に
建築家となる
山田守に
どんな影響を与えたのか…
点と点を結んで
漫画にする作業は
かなり根気のいる作業ですが
不思議な楽しさに満ちていて、
これからも
頑張って
続けたいと思います
IMG_5149

山田静


次の更新につづきます!

(次回ようやく岐阜篇の最終回です!)

50年めの大きな玉ねぎ #11-5(少年篇) 絵画のめざめ

山田11-4先に行ってて
山田11-4ラスト山田11-10−1
山田11-10−2山田11ー11ー1−1山田11ー11ー1−2山田11ー11ー3
山田11ー11ー4山田11-11−2−1山田11-11−2−2
山田11-11−2−3
山田11-11−2−4

山田11-12−1山田11-12−2
山田11-12−3
山田11-12−4
山田11-13−1
山田11-13−2
山田11-13−3
山田11-13−4

つづく

からを為すのがワシの精神じゃ!』

この言葉は、

繰り返し

祖父・山田守が語っていたと言う

生涯の信条です

(文書には残っているのが
みあたらないのですが

祖母のテープでは
繰り返し
祖父が
そのように言いながら

建物を工夫した
エピソードが
語られていました)

(また、
今回の

漫画内では

セリフとして
『有を為す』が
わかりにくいかな?と思い

価値を生んでやる、
という表現にしてあります)

この精神は

いつどうして
培われたのか?
それが
私の、
山田守をめぐる
最大の謎で

大きな関心事でしたが、

この後、


祖母と
金沢で出会ったときには
すでに
このような感性を
持っていた
様子なので、

岐阜の生家での
生活の中で

身につけた考えだと思われ、

また、

ちょうど
兄静の騒動と
重なる時期に
心境の変化があったらしいので、

このように
描いてみました。

実は

今回の
漫画には

私が山田守を調べていって

彼の心情の
核となる部分

こうであったのではないか?

ということが
たくさん
入っている
ものになっています。

建築の歴史の中で、

表現主義
とか
機能主義とか
呼ばれる

守の特徴も

ひとりの生身の人間として

このようないきさつが
多かれ少なかれ
あったのではないか?

と思われ、

知り得た点と点を
結びつけて

ドラマ仕立てではありますが
描いてみたつもりです。
細かい解説は
長くなってしまうので

またいずれ
別の機会に
描いてみたいと思っています。

なお、
中に出てくる
守の絵

実際
守が
この絵で賞をもらったもの
使用してみました。
また、

大垣中学80年史

守の絵が
四年生の夏休みあけに


急激に上手くなって

同級生が
驚いている
感想文

みつけることができたので

そのエピソードを用いています。

エピソードの発掘には

大垣北高校の
五十川先生
大変
お世話になりました

厚く御礼申し上げます

次の更新につづきます!

岐阜篇は
あともう少しでおしまいです!)

50年めの大きな玉ねぎ #11-4(少年篇) 絵画のめざめ

山田11-5-4
山田11-6コウノトリ
山田11-6勘当
山田11-6田を返せ
山田11-6たたり
山田11-7チーン
山田11-7しんきくさ
山田11-7おどろいた
山田11-7あたまおかしく
山田11-8上司が
山田11-8なまじ
山田11-8そうときまった
山田11-8二の舞
山田11-4よっぽどさみし
山田11-4−2恋愛劇
山田11-4−2とりもどす
山田11-4−2画家?
山田11-4先に行ってて
山田11-4ラスト

つづく

当時としては
衝撃的だった
静の行動が

兄弟にとっても

自分の未来を真剣に考える
きっかけ
になったのではないか

私には
思えてならないのでした・・・

さて、
守の思索は
どのように深まったのでしょうか? 

次の更新につづきます

この11話は
次のお話で完結です

つづきは

作業の都合上


熊本レポートの後にアップと

させて頂きます

お待たせして申し訳ありません

一生懸命描いていきますので

引き続き
どうぞよろしくお願い
いたします

【50年めの大きな玉ねぎよりお知らせ】
熊本イベント受付継続中です

2018年3月17日(土)17時〜18時

熊本市にて

山田守の人となりについて お話させていただくことになりました。

2017寿チラシ表_最終

熊本大学などの 方々で運営されている
けんちく寿プロジェクト』さんが

熊本で長い間親しんでいただいた

山田守 設計の『熊本市役所 花畑町別館』(旧熊本貯金支局)
(1936年竣工)

解体されましたが

IMG_0493

建物の記憶を語り継ごう
という趣旨で

残された部材の展示会
などを
行ってくださるそうです。 

建築の専門的な事柄について
お聞きになりたい方は
3月16日(金)17時より

山田守の研究を精力的に行って下さっている
大宮司勝弘先生


お話しをどうぞ!

私につきましては、

〝山田守の人となり〟が
あまり知られていないようなので

私なりの守像を

孫目線で
お話させていただけたらと
準備中です

当日は予約制で無料です

ご予約、お問い合わせは以下
けんちく寿プロジェクトさまへ

お近くの方で
当日お時間ある方

お目にかかれたらとても嬉しいです

(また、ご予約の上 私のテーマトークに
ご参加くださった方
私からささやかなプレゼントを差し上げる予定です)
※運営さんに貰いに行かないでくださいませ!

けんちく寿プロジェクト
申し込み&お問い合わせ先
kenchikukotobuki@gmail.com

kenchikukotobuki2017@gmail.com
(リンクがうまく飛ばない場合
こちらをコピーの上メールにご使用ください) 

ツイッターからも受け付けているそうです

 https://twitter.com/kotobuki_prj/status/966079866570399746


けんちく寿プロジェクト HP

50年めの大きな玉ねぎ #11-3(少年篇) 絵画のめざめ 

 
 
山田11-3−4
 
 
 
山田11-4-1山田11-4-2
山田11-4-3
山田11-4-4
山田11-5-1
山田11-5-2
山田11-5-3
山田11-5-4
 
 
 
 
 
 

 

 

 

つづく

 

 
 静兄の
強引なやり方は

 

おそらく
明治の民法では

家長同士の許可がないと

結婚できないという
制度に
反発するための

ものだったのでは?

時代背景を調べていくと

思われてくるのでした。

静兄は
30歳まで
うやむやと時間を延ばし

強引に一緒になることが
できましたが

当時は
そうはできない恋仲同士の
駆け落ちや
心中事件が

よく起きていたと
いうことです

また当時、

 

 
 
芸者さんは

 

社交的で美しく

とても人気があり、

妻に迎えたり
浮名を流した
著名人
沢山いたようです

静兄と結婚した
アき』さんも

美人なだけでなく、

とても気のつく
素敵な人柄の方だったと聞いています。

ある意味
最先端の女性と
大恋愛の末
結ばれた

静兄でしたが

当時の実家の人々には

おそらく

全く理解できなかったのでは
ないでしょうか。

父・弘三は

大反対して、

激昂のあまり

脳溢血でフラフラになった
そうでした。

そしてまた、

その後の
色々なことを
総合して考えていくと

この出来事は

山田守の

人生に

多大なる

影響を
与えたのではないか?

思えてならないのでした・・・・

次の更新につづきます

【50年めの大きな玉ねぎより】
お知らせ

 

2018年3月17日(土)17時〜18時

熊本市にて

僭越ながら

私 Y田Y子、

山田守の人となりについて お話させていただくことになりました。

2017寿チラシ表_最終

【イベント終了しました】


熊本レポまんがは
こちらのリンクより
次の記事へで進むと6話完結で読めます

 

50年めの大きな玉ねぎ #11-2(少年篇) 絵画のめざめ

山田11 -2−3
山田11 -2−2−1
山田11-3−1

山田11-3−2
山田11-3−3
山田11-3−4

つづく

この
11話は
5回 ほどに分けて
配信しています

つづきは
2月25日日曜日お昼 更新の
予定です
少しずつですみません
【50玉 メイキングMEMO
静兄は
色々分かっていない
ことも多いのですが
芸者をしていた
大美人と
結婚したのは
語りつがれております。
それはそれは
後光が射して
見えるほどの
オドロキの
美人さん
だった
そうです。
あまり語ると
ネタバレとなるので
また
次の記事で。

50年めの大きな玉ねぎ #11-1(少年篇) 絵画のめざめ

新コーナー?
【50玉 メイキングMEMO
毎回の
元ネタ・なぜこう描いたか?
ネタバレにならない部分を
メモしていきます
(漫画だけ読みたい方は
飛ばしてください)
①今回の話は
大垣中学の80年史
守について書かれた
友人の感想文が
残っていたので
それを元に
話をつくりました。
頭の長いお友達(o^^o)
中西君と言って
のち
出世して
守と
ある場所で再会します。
この時代に
旧制中学
旧制高校
に行った人は
数がとても少なく
そのためもあり
いわゆる
エリート職についた人が
多く
調べると
ウィキペディアがあったり
何かの賞の創設者になっていたり
色々資料が残っていることが
多いのに
驚かされます。
調べていて
面白いです。